ジェフユナイテッド市原・千葉の本拠地でもある、「フクダ電子アリーナ」の楽しみ方を徹底ガイド致します。フクアリ未体験の方も、年に一度の観戦を楽しみにしているアウェイサポーターの方も必見です!このブログにしか載っていない、ディープな情報をお楽しみ下さい!
フクダ電子アリーナ
2013年7月22日月曜日
ニンスタの歩き方 ニンジニアスタジアム 徹底攻略ガイド その23
旭川に架かる月見橋を100メートルほど北に歩くと、日本三名園の一つ 「岡山後楽園」があります。
日本三名園といえば、茨城県水戸市にある「偕楽園」、石川県金沢市にある「兼六園」、そしてこちらの「岡山後楽園」。
2011年7月3日にアウェイの vs カターレ富山戦の観戦に行った際、翌日、石川県まで足を伸ばして兼六園を観光することが出来たのですが、今回は時間が無いため泣く泣く断念。
せっかくこんな近くまで来てるのに・・・。いつか絶対にリベンジしてやる!(できれば9月29日の vs ファジアーノ岡山戦でもう一度来たい)
日差しも西に傾きはじめた16時31分、岡山城の敷地に足を踏み入れても数えるほどしか観光客の姿がありません。
それもそのはず、岡山城への入館は17時までということで、残り29分しか無いこのタイミングでお城巡りをしようと企むほうが無謀というもの。(観覧時間は17時30分まで)
城内の展示品やお城の歴史をしっかり学ぼうとするなら、どんなに少なく見積もっても45分~1時間はみておかなくてはいけないでしょう。
周囲800メートル以内には様々な観光地があり、後楽園まで200m、林原美術館・岡山県立図書館まで400m、県立博物館・岡山シンフォニーホールまで500m、市立オリエント美術館まで600m、県立美術館・観光案内所まで700m、夢二郷土美術館まで800mとなっています。
表書院跡の北西隅に建つ 「月見櫓」は、この本丸内に現存する唯一戦火を逃れた建物で、国の指定重要文化財にもなっています。
元和・寛永年間(1615~1632年)に岡山城第5代城主・池田忠雄(ただかつ)によって建てられた月見櫓は、文字通り「月見」を楽しむためにも用いられたようですが、本来の目的は表書院の北西を防衛するためのもので、
櫓自体も武器の貯蔵庫になっており、隠し銃眼(鉄砲を撃つための狭間)や中世的な石落としの装置などが設けられています。
表書院と本段を繋ぐ不明(あかずの)門をくぐるUさん。私たちの後ろからは誰一人としてお城に向かう姿も無く、まさに岡山城貸し切り状態。(笑)
正面にそびえる岡山城天守閣は、今までのお城巡りでは見たこともない紺色の外壁を有しており、その建造の歴史にも興味深々。
「不明(あかずの)門」を通り抜け、石段を上りきった上段は「本段」と呼ばれる広場になっていて、この南東の一面には多くの石が整然と並べられた場所がありました。
これらの 「礎石群」は昔の天守閣の礎石を移したもので、かつてはこの状態で重く大きな天守閣を支える役割を果たしていたとのこと。
(天守閣正面入口の右側には、岡山城の唄が書かれた石碑があります)
入場料金は大人(15歳以上)が300円で、観覧時間は午前9時~午後5時30分(入館は午後5時まで)。
また、岡山城と後楽園の両方に入場できる共通券 大人560円(15歳以上)なども販売されています。
日本100名城公式ガイドブック専用の記念スタンプは天守閣入口にありました。
記念スタンプを押すだけなら入場料を払う必要は無いのですが、せっかくここまで来たということで、殿様気分を味わうために岡山城下が一望できる最上階まで上ることに。
城内入ってすぐ、昭和41年に天守閣が再建された時に最上部に掲げられていた金のシャチホコが展示されていました。
これらの金のシャチホコは土製の瓦として焼かれた後に、漆を接着剤にして金箔を貼りつけたもので、同様の仕事がなされたものが現在の天守格最上部にも金色の輝きを放っていました。
(岡山城の歴史)
岡山城は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。
いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ 「後楽園」を背景にしたこの城は、天守閣の基壇(天守台という)が北に大きく突き出た不等辺五角形という、全国に全く例のない珍しい形をしており、また塩蔵を併設した複合の天守閣である。
かつての岡山城の場所は、今の天守閣のある位置より西に300mほど行った、現在の市民会館や放送局の建っている高台(石山という)にあった。
天正元年(1573年)、宇喜多直家が当時ここの城主であった金光宗高を滅ぼし、その城を修築した後、沼城(岡山市東区沼)から移ってきた。
今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家(ひでいえ)で時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。
秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部ももらい、57万4000石の大大名となった。
そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。
こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天守閣の立つ場所 「岡山」という名の小さな丘の上に、新しく旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上中下三段の地形を造成した。
そして天正18年(1590年)から本格的な城づくりを開始した。
途中、秀吉の朝鮮半島への進攻には、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、ついに慶長2年(1597年)の天守閣の完成で一応城づくりの全工事を完了した。
起工以来、実に8ヵ年にも及ぶ大事業であった。
月日は流れ、昭和6年と8年(1933年)の二度に分けて国宝に指定された岡山城であったが、昭和20年(1945年) 6月29日の早暁、第二次大戦による市街地空襲で、惜しくも天守閣・石山門を焼失してしまった。
現在の天守閣は、昭和41年(1966年) 11月3日、市民の長年にわたる要望で作られた鉄筋コンクリート造りだが、外観は旧状通りに再現された。
また、同時に 「不明(あかずの)門」 ・ 「廊下門」 ・ 六十一雁木(がんぎ)上門、それに周囲の塀なども古い絵図面に従い、外観通りに再現された。
(岡山城公式パンフレットを引用)
(岡山城天守閣の最上階から見える「後楽園」の様子)
駆け足で見てきた城内から1階に降り、時計を見ると入城からわずか11分しか経過していませんでしたが、この時すでに時刻は16時42分を回っており、「新幹線のぞみ44号」が発車する17時14分まで猶予は32分しか残っていませんでした・・・。
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