神君出生の城・岡崎城は、別名 竜城・竜ヶ城(たつがしろ)と呼ばれ、鉄筋コンクリート構造の3層5階からなります。(昭和34年復興天守閣)
城内は撮影禁止のため写真はありませんが、1階は出入口を入ってすぐ左が休憩所、正面奥が発券所になっており、旧岡崎城の天守の心柱の礎石(そせき)・城材を展示しています。
2階のテーマは「藩政と支配」。岡崎藩の藩政の紹介と、刀剣や甲冑などの武具を展示。
「岡崎城と城下町」の映像が流され、六手永と大庄屋、武士の農村支配、加茂一揆のジオラマ、江戸後期から維新期の岡崎藩の動向などを見ることが出来ます。
3階のテーマは「城下町の文化と産業」。江戸時代に城下町、宿場町として栄えた岡崎の産業や、人々の生活を中央にあるジオラマシアターで見ることが出来ます。
宿場町・藤川宿、三河花火、矢作川舟連(しゅううん)、岡崎の城下町と文化、八丁味噌、鋳物刀鍛冶、石工道具などが所狭しと紹介・展示されていました。
4階のテーマは「城と城主」ということで、フロア中央には江戸時代の岡崎城を城郭模型で再現するとともに、歴代岡崎城主を紹介しています。
また、岡崎城の瓦、二の丸の出土品、調度品、岡崎藩年表、西大平藩、奥殿藩の資料などが展示されていました。
5階に上がると、四方からパッと視界が開けて、岡崎市内の景観を一望することが出来ます。
中央の床には岡崎絵図が描かれ、壁の上部には東西南北に跨って天守閣のある14のお城の写真、旅の記念として顔の部分がくり抜かれたパネルが置かれていました。
東西南北それぞれに実際に見える風景の説明パネルが置かれ、360度全て一望できるように外周をぐるっと回ることが出来るようになっています。
当時、一番高い建物であった岡崎城のこの天守閣から、徳川家康公は北に見える徳川家菩提寺の大樹寺(だいじゅじ)を拝したと言われています。
わずか3分で5階の天守閣まで一気に駆け上がって来たので、息が切れて大変でした。(皆さんはゆったり時間を確保して回って頂きたいと思います)
ただ、南と西には矢作川・菅生川に囲まれて、北は三河の山々、東に岡崎市の中心部が見渡せる展望台からの眺めは圧巻。
ここで、パンフレットを引用して岡崎城の沿革を紹介したいと思います。
岡崎城の起源は15世紀前半までさかのぼる。明大寺(みょうだいじ)の地に西郷頼嗣(よりつぐ)によって築城されたのがその始まりである。
その後、享禄(きょうろく)4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになった。
天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生した。家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立した。
ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めた。
元亀元年(1570)、家康は本拠を遠江(とおとうみ)浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男(ちゃくなん)信康を岡崎城主とした。
天正7年(1579)に信康が自刃(じしん)したあとは、重臣の石川数正(かずまさ)、ついで本多重次を城代とした。
天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣・田中吉政が城主となるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせた。
江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となった。
石高こそ5万石前後と少なかったが、大名は岡崎城主になることを誇りにしたと伝えられる。
明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不要とされた城郭の大部分は明治6~7年(1873~74)にかけて取り壊されてしまった。
このあとは、堀と石垣が昔日(せきじつ)の面影をわずかに伝えるばかりであったが、岡崎の象徴である天守閣が無いままでは忍びないとする市民の思いは強く、昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守閣が復興された。
いにしえ、東海道を往来する旅人が仰ぎ見たであろうその姿を、今、我々も眺めることができる。
-引用終了-
「三河武士のやかた 家康館」について(パンフレット参照)
BF地階 常設展示室
プロローグ「天下を取らせた三河の風土」
岡崎は、鎌倉・室町時代を通じて源氏・足利氏と深いつながりを持っていました。本章の前史として源頼朝と足利尊氏にスポットをあて、両家と当地方との関係をグラフィックで紹介しています。
1、「松平氏と譜代家臣の形成」
「三河物語」を著した大久保保彦左衛門が案内役として登場。家康の先祖である松平一族の初代親氏から、7代の清康までの人物像と、三河譜代についてのCGと歴史資料で紹介します。
2、「家康の出生から人質時代」
家康は松平8代広忠の長男として岡崎城で誕生。幼名は竹千代。6歳から12年間、織田氏と今川氏での人質生活を送りました。
家康や一族にとって苦難の時期をグラフィックと歴史資料で紹介しています。
3、「家康の三河平定」
桶狭間で今川義元が戦死すると、家康は岡崎に戻り三河平定に乗り出します。今川家との断絶、一向一揆を経験しながら自立していく過程をグラフィックと映像で紹介します。
4、「織田・豊臣政権下の家康」
三河平定後の家康は、武田氏との抗争に入ります。信長死後、甲斐・信濃の攻略に成功、五か国大名となった家康は、秀吉と対抗するまでになります。
この過程をグラフィックで紹介し、関ヶ原の戦いを大型映像と屏風ビジョン、武将フィギュアによる可動式ジオラマでダイナミックに再現します。
5、「江戸時代の基を築いた家康」
1600年、関ヶ原の戦いで石田三成を破った家康は、征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。その後は駿府に引退する形をとりながら実権を握り、2回にわたる大坂の陣で豊臣氏を滅ぼしました。
家康が75歳の生涯を閉じるまでをグラフィックで紹介し、肖像画を展示しています。
1F(1階)には、特別展示室があります。
家康が所蔵する歴史資料、絵画、武具などの美術品の紹介や、家康をはじめ三河武士に関連するテーマ展を開催しています。
また、映像コーナーとして、クイズ形式による「検索!徳川家康」をはじめ、岡崎城や家康関連のビデオが楽しめ、家康や三河武士に関わる情報が満載となっています。
最後は、戦国武士の体験コーナーと(地階)、甲冑試着体験室(1階)。
火縄銃や長槍などの模型を設置し、実際手に取り重さを体験できます。また、兜の模型をかぶっての記念撮影もできます。
常設の甲冑試着体験では、無料で試着することができ、写真撮影も可能となっていますので、岡崎城に来た際には、是非、「三河武士のやかた 家康館」に行ってみてはいかがでしょうか?
天守からの見事な景色を目に焼き付け、足早に1階まで降りてくると、時計の針はちょうど10分後の13時46分を指していました。
帰りは、殿橋北交差点を渡ってから右折し、殿橋を通過。殿橋南交差点を過ぎてからは、ひたすら県道483号線を真っすぐ進んで行きます。
右斜め前に「愛知銀行 岡崎支店」の建物を確認すると、明大寺本町交差点を左折。
青看にも大きく左方向「東岡崎駅」と出ていました。
昔ながらの駅前のお店はシャッターが閉まっているところも多く、寂(さび)れたとまではいきませんが、今の時代、小さな店舗はどこも生き残るのに必死なことは伝わってきます。
名鉄・東岡崎駅に到着したのは14時02分。予定していた特急までは3分しかありませんでした。(疲れた~)
JR豊橋駅までは大人550円ナリ。(焦りすぎて写真がブレてるや~)
3・4番線ホームまで降りて行くと、ちょうど豊橋行きの特急が滑り込んでくるのが見えました。
特急の豊橋行きは、途中立ち寄りが「国府」のみで、わずか21分で豊橋まで行ってしまいます。
列車内はかなり空いていて、2人掛けの席を確保することが出来ました。
座席に座ってから、先ほどUさんが岡崎城でゲットした「日本100名城」の専用スタンプの図柄を見せて貰いました。
しばらく寛いでいると、Uさんから「横浜FCが前半1-0でリードしてる」との情報が。
昇格プレーオフ進出のために、絶対に勝たなければいけない横浜FCは、試合開始早々から迫力満点の攻撃を披露。
そして迎えた前半34分、2戦連続で先発出場していた石井圭太選手が、正確なクロスをゴール前に供給。
エースのイバ選手が相手DFと競りながらフィジカルを活かしたヘディングシュートを放つと、ボールはGKの正面へ。
勝利への執念が乗り移ったボールはGKの手を弾き、ゴール右隅に吸い込まれていきました。横浜FCにとっては待望の先制ゴール!
しかし、先に1点取ったことで守りの気持ちが芽生えたのか?その後は守勢に周り、前半は1-0で終了したとのこと。
14時26分、定刻にJR豊橋駅に到着。
(豊橋駅の通路にはレーシングカードが展示されていました)
帰りの新幹線の時刻まで1時間ちょっとしか無いということで、駅ビルの1階にある「カルミア おみやげ館」でみんなへのお土産を物色することに。
(どうやら、豊橋市内には全長400メートルの「のんほいサーキット」という名所があるそう)
いつものアウェイ旅行だと、いろんなお菓子・お煎餅をたくさん買って、それを小さな袋に人数分に小分けして渡しているのですが、今回の旅行では行く前から既に買いたい物が決まっていたのでした・・・。
(私自身もレーシングカードをやっていたので、機会があればこういう場所も見てみたかったです)
・・・ということで、私が買おうと思っていたお土産売り場に脇目も振らずに歩いて行きました。
つづく
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